思えば、人と価値観が違うことは当たり前な時代になった。
誰もが憧れるマイホーム・誰もが憧れるマイカー・誰もが憧れるアイドル。画一的な価値観は旧時代的なものとなっている。
Twitterを見ていると、様々な切り口でたくさんのプロフィールが記載されている。他人とは違う特別な存在であることを演出し、人との差別化をしている。
これがTwitterにあるプロフィールのマジョリティであろう。(ぼくもその一人だ。)
しかし奇妙なところもある。他人とは違う存在であると、”個性”を主張している一方で、人は共感を求めている。「いいね」がされれば嬉しい、リプライが来たら即レス、引用RTされたらRT返し。
他人と違う人間であると主張をする一方で、共感を求めている。これは何故なのか。
今日はその話をしていきたい。
”個性”に共感をもらいたい。
「みんな違って、みんないい。」という言葉がある。
個人の価値観が異なることは当たり前であるという前提をもとに、その価値観は肯定されるべき。というものである。
共通のものさしで測ることが間違いだ。
個性的な存在である自分を見てもらいたい。そしてその上で共感をしてもらいたい。
この気持ち、ぼくはすごくよく分かる。
ぼく自身、結果的に画一的なレールに乗って人生を過ごしてきたいわゆる凡人だ。
日本人として生まれ、日本人として育ち、小学校・中学校・高校と東京の外れで過ごした。
しかしぼくは、大学生の頃から”特別な存在”でありたいと考えるようになった。自分には可能性があり、それを実現するための行動力がある。そんなふうに思っていたし、持っている人たちに嫉妬したりもした。
ぼくには何か特技があったわけではない。自分の趣味の中で他人と比較して突出するようなものは何一つなく、平凡だと自分自身認識していたにもかかわらず、ぼくは「特別な個性」を持つことを求めていたのだ。
希少性がある人間の”フリ”は共感が得られるのか?
残念ながら、希少性がある”フリ”は、すぐ人に見破られるとぼくは気づいた。
「俺はただの人間と違うんだ!」って主張する凡人ほど見苦しくて痛いものはない。
人は希少性を求めた上で共感を求めるが、そんな独りよがりのエゴを出し切った結果、量産型俺SUGEEな奴が大量に出現する。
そもそも順番が逆なのだ。
経験をし、誰も経験し得ないようなことを繰り返し、それが認知されることで初めて希少性を得る。その結果共感が生まれるというのがプロセスのあるべき姿だ。
イケダハヤト氏が独自性と共感を両立させているのは、プロブロガーを名乗ってサラリーマンを煽っているのが理由ではない。
裏付ける行動があり、経験を重ねたからこそ、希少性と共感を両立させたのだ。
そんなことを考えた。
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